鎮江香酢の起源を辿るには、2600年前にまで遡らなければならない。その頃、すでに鎮江には香酢を作る工房があった。鎮江の神話や伝説では、香酢は周代の酒造りの名人である杜康の息子が作り出したことになっている。当時、杜康は酒を醸造した後、一家を引き連れて鎮江へ至り、小さな酒蔵を開いた。この酒蔵は長江の畔にあり、下流域南岸の龍の住み処に面しており、その下には小さな白龍が一匹住んでいたそうであるため、この辺りの水質は清らかで甘く、杜康はここで酒を造ることにした。彼の息子である黒塔は家事の手伝いで毎日水を汲んで、家まで運んだ。ある日のこと、黒塔は家で飼っている馬が酒粕を食べているのを見て、ふた担ぎの水を酒甕に入れてあげた。これを毎日繰り返すことで、馬もとても丈夫に育ったという。
夏真っ盛りのある夜、黒塔の夢の中に老仙人が出てきて、「おまえが作った調味料はとても旨い。少しわしに分けてくれんか?」と言った。黒塔はわけがわからなかった。いったい自分が何を造ったというのだろうか。すると老仙人は黒塔の傍にある大きな水瓶を指さしながら、こう言った。「おまえはそいつを21日間作り続けただろう。今日、酉の刻が食べごろなのじゃ」と。さて、次の日。目を覚ました黒塔は夢で見たことを杜康に教えた。杜康が水瓶を確かめてみると、これが香りよく酸味があり、またその甘さは口の中で消えることがなかった。そこでこれを酢と名付けたのである。
(一)
伝説によると、唐太宗は大臣の房玄龄の能力を高く買い、ある宴会で彼に二人の絶世の美女を賜った。しかし房の妻は激しい気性の持ち主で、夫が側室を持つことを頑として認めなかった。そこで唐太宗は夫人を呼びつけ、側室を認めるか毒を飲むかという二者択一を彼女に迫った。房夫人はちらりとも躊躇わず毒を飲んだが、何も起こらなかった。瓶に入っていたのは毒ではなくて香酢だったのである。唐太宗は「貴方みたいな女性には、私でさえ恐れ入りました。まして房玄龄は言うまでもないでしょう」と言った。そして美人を下賜する命令を撤回した。この故事を基に、「吃醋」(酢を飲む)という言葉は男女関係でやきもちを焼く心理を指す言い回しとして、今日まで使われている。
(二)
宋代の士大夫である蘇東坡は何度も江南に下り、多くの名詩佳作を残した。あるとき、彼は焦山と言うところを訪れ、焦山定慧寺の方丈と共に遊んだ。そんななか、方丈の案内で鎮江の名物料理である「清蒸鰣魚」(ジギョ蒸し)を味わったとき、蘇は名句「姜芽紫醋炙鲥魚,雪碗擎来二尺余。尚有桃花春气在,此中风味胜莼鲈」(ショウガの芽に紫の酢、綺麗な皿に盛られた二尺ほどのジギョ。桃の花が咲き、春の息吹がまだ残っている。この香りはわが故郷の味にも勝る)を書き残したのである。”
(三)
明朝の末、鎮江に酒屋を営む夫婦がいた。夫婦は年越しのため、忙しく立ち働いていた。妻は里帰りして父母にあいさつするために、街に出て茶菓子を買い、ついでに爆竹を作るための硝石を買った。結局豚足の塩漬けを準備しようと思った夫は硝石を塩としてうっかり使ってしまったのである。間違いに気づいたときには、豚足は赤く染まり、肉質はきゅっと締まっていた。食べられるかどうかは分からないが、捨てるのも惜しいと思う妻は水洗いをして料理に使おうと考える。そこにロバを引いた老人は店に入るなり、肉を見てこう聞いた。「これはなんて料理だい?いい香りだね」。妻が「おじいさん、これは硝石で漬けた肉ですよ、料理としては使いません」と答えると、老人は「なに?料理じゃない。ならわしはお茶受けとしていただくとしよう」と答え、硝肉を食べるといって譲らなかった。そこで、冷えた硝肉の臭みを心配した夫は、老人のために急いでショウガの千切りを小鉢一皿分付けて出し、妻も老人が冷えた肉を食べてお腹を壊すのを恐れ、胃が暖められる酢を付けて出した。
老人は肉を酢に付け、ショウガの千切り一つまみと一緒に食した。すると、肉は香りも口触りもよく、みずみずしくて柔らかい。じつは、この老人は神話八仙人の一人、張果老であった。鎮江を通りかかった折、この肉の良い香りを嗅ぎつけ、西王母の桃の宴にも行かず、わざわざロバを降りて、硝肉を食しに来たのであった。
のちに、この夫婦は「豚足の硝石漬け」の作り方をそのまま襲用し、硝肉で有名になった。また、優れた肴という意味を込め、料理の名前も「肴肉」と改めた。「肴肉は料理としては食べない」という習俗は今日に至るまで受け継がれ、現在、鎮江の人々は朝に茶を飲むとき、お茶を淹れながら、千切りショウガの小鉢とともに、肴肉を香酢に付けて食べるのである。
優れた酢は優れた醸造場から生まれる。鎮江香酢と言えば、いつも話題に上るのは鎮江恒順醤酢廠である。酒造場から家業を起こし、もともとは老黄酒(百花酒)という醸造酒だけ作っており、酢は作っていなかった。屋号も「恒順」ではなかった。
この酒造場にはこんな伝説がある。大昔、酒造場の新たな店舗を開く日、ある老人が壺を下げて立っていて、酢を買いたいと言う。その頃の酢は出来の悪い酒から作られるものだったので、新しい店を開いて早々まさか酢を買いに来るなんてと、みんな縁起が悪いと思い、良い顔をしなかった。
しかし酒造場の主人朱兆懐はにこやかに酢を買いに来た老人に「お客さん、すみませんね。今はまだ酢は作ってないんですよ。また後日来ていただけますかな」と言った。老人は持ってきた壺をその場において踵を返し、「良い酢が出来たらまた来よう。なんと言っても酢は万病に効く良いものじゃからの」とだけ言い残して、店の外へ去っていった。
この老人が神仙である華佗に似ていると言われたことから、神仙の教えならと、朱は酢を作ることを決め、神仙の意志に永遠に順うという意を込め、屋号も「恒順」と改めたのである。
やがて「恒順」は少しずつ酢、醤、酒の生産規模を拡大した。そして1910年5月、「恒順」の香酢と醤は中国の歴史で初めて世界レベルの博覧会で金賞を受賞したのである。