鎮江の「三山」とは長江沿いの金山、焦山、北固山を指している。金山はお寺や楼閣が建ち並び、仏教の塔が聳え立っている。焦山は川の中心に位置し、山の一面が青々と茂っている。北固山は険しく、山の中にある甘露寺は三国時代に劉備が婿入りをした地だ。「三山」と長江運河の映り合いは秀逸な山水画の長巻に書かれたようになんとも素晴らしい。
金山は山に依って、東晋時代に建てられ、「三山」のトップに位する。かつては長江の中の島だったが、土砂がたくさん溜まったため、清の道光年間に長江の南岸と連なって、「金山寺が山を埋め尽くすようになり、寺や塔は見られるが、山が見えない」という趣のある景観になっている。昔からたくさんの文人墨客はその景観に憧れてやってきた。
[金山寺]
金山が江南で有名な山になった理由は、1600年以上の歴史を持つ寺があるからである。山腹に沿って建てられたお寺は重に連なり、巧妙な技術で建築と周りの環境がうまく融合していて、「金山寺裏山」(山がお寺に囲まれていること)と呼ばれる奇妙な風景になっている。金山寺は中国四大寺院の一つで、江南の仏教の聖地であり、書画や青銅などの貴重な文化財を収蔵している。
中国の民話「白蛇伝」のクライマックスのシーンのひとつ「水没金山寺」の舞台は鎮江金山寺である。伝説によると、白蛇が千年の修行を経て人となり、西湖のほとりで許仙という人と恋に落ちたが、和尚の法海はそれを許さず、許仙を騙して金山寺まで連れていった。白蛇は夫を救うため、術を使って金山を水没させ許仙を救い出したが、結果鎮江に大きな洪水を引き起こし、人々に塗炭の苦しみをなめさせたため、法海によって雷峰塔に閉じ込められた。
[金山湖]
金山湖は金山風景区にあり、湖には長い桟道がある。桟道をゆっくり歩くのもいいし、ボートに乗り遠く金山寺と夕日を眺めるのもいいだろう。
[慈寿塔]
慈寿塔は1400年以上前に建てられた。宋の時代には薦慈塔と薦寿塔であり、明のときに崩壊し、清の光緒年間に再建され、ちょうど西太后六十歳の誕生日にあたり、慈寿塔という名付けた。金山の西北の頂上に位置し、高さ三十メートルの美しい塔であり、訪問者は塔を登り、揚子江のパノラマを一望することができる。
逸話・雪舟は金山寺で絵画を学んだ
日本の有名な画家である雪舟等楊は48歳の時、遣明船で中国へ来て、鎮江の金山寺に2年間滞在した。この間、雪舟は現地で写生した。雪舟が描いた『大唐揚子江心龍遊禅寺図』と『揚子江勝景図』には金山と金山寺がまだ長江の南岸とつながっていない様子が描かれ、また、江の島に聳え立っている寺院(金山寺)が『唐土勝景図巻』に描き入れられ、これらの作品は今、日本の京都国立博物館に収蔵されている。
風習・金山寺で線香を焚いてお祈りをする
昔から、金山寺はお参りが盛んで、特に毎年の大晦日になると、一万人を超える観光客がここに集まり、線香を焚いてお祈りをする。お参りをする人々は列を作って鐘をたたいたり、線香を焚いたりして、新年のお祈りをする。この時、金山寺は煙に囲まれ、読経の音が漂い、まるで世間離れの仙境のようだ。
焦山は長江で唯一、四方が川に面しており、観光やレジャー機能を備えている島である。象山の麓からフェリーに乗ってわずか五分で焦山に着く。「山裏寺」の独特な景色を楽しむことができる。
[三诏洞]
東漢時代の学者である焦光は、役人をしたくないため焦山に隠居した。彼は医術に精通しており、地元住民の病気を治した。漢献帝はその噂を耳にし、三たびにわたって詔勅をくだし、彼を説得したが断られた。それに因んで「三詔不起」と称され、後代の人は彼を記念するためこの山を焦山と命名し、三詔洞を建造した。
[定恵寺]
焦山には1800年以上の歴史を持つ古い寺、定恵寺があり、明王朝の建築様式を保っている。飛縁などの建築様式は中国でも非常にまれである。
[焦山碑林]
焦山碑林は「摩崖石刻」と「碑林陳列」で構成されている。摩崖石刻は焦山の西側の崖に刻まれた古代名詩人の碑文であり、碑林は中国古代の様々な碑文を収集しており、書道、芸術、歴史資料、碑文など、内容は非常に豊かである。
北固山は北側が長江に臨み、地形が険しい(中国語で「険固」)ため、「北固山」という名がつけられ、「天下一の江山」とも言われている。北固山の山頂まで登ったら、雄大な山や川の景色が目に収められる。三国時代の物語で有名になったため、三国時代の遺跡を探しに来る観光客を魅了している。
[阿部仲麻呂詩碑]
甘露寺の西側には詩碑があり、阿部仲麻呂の郷愁の歌「望月望郷」が刻まれている。阿部仲麻呂は、奈良時代の遣唐留学生であり、日中の文化交流における傑出した大使でもある。唐玄宗は彼を高く評価し、要職に任じた。西紀 753年、彼は鑑真とともに東に向かい、長江のほとりに停泊したとき、月を見て郷愁を覚え、有名な五言詩「望月望郷」を詠んだ。
[甘露寺]
赤壁の戦いの勝利の後、劉備に荊州を取られてしまった周瑜は、孫権の妹との偽の結婚話を持ちかけて劉備を京口(現在の鎮江)の甘露寺へ引き寄せ人質にとろうと企んだ。しかし諸葛亮はその計略の裏をかき、じっさいに孫権の妹を劉備と結婚させてしまった。孫権にとってはまさに「盗人に追い銭」である。舞台となった甘露寺は、劉備の婿入り事件で有名になった。
[北固亭]
北固亭は北固山の一番高いところに位置し、北固山と長江の風景を一望できる。伝説によると、孫尚香は夫の劉備が白帝城で敗れたことを聞いて強い悲しみに襲われ、この地で彼を弔い、その後川に身を投げたとされる。その故事に因んで、北固亭はまた祭江亭ともいう。