伝奇的な愛の聖地

大喬・小喬、孫策・周瑜へ嫁ぐ—丹徒五洲山

伝説によると、東漢の末に丹徒から焦光という隠士がいったそうだ。漢献帝は焦光に山から出てくるように特使を派遣した。この特使こそ喬国老である。結局、喬国老は任務を果たせず、漢献帝は権力を失い、軍政の大権は曹操の手中に渡る事実を見た後、喬国老は帰京・復命できず、ここ丹徒の長山の北側と隣接する五洲山に落ち着くことになった。後にここは、喬一族が住む土地ということで喬家門と呼ばれるようになった。

喬国老の屋敷がどこにあったのかについては、検証できる史料が残っていない。しかし、喬一族の祖廟は今でも喬家門に残っており、伝説によると喬氏の祖廟は最初に屋敷が建てられた土地に作られたと言われている。2005年、老人の喬さんが『京江晩報』に投稿した。それによれば、民国時代、喬氏の祖廟はとても壮観であり、その規模は奉化渓口の蒋氏祖廟以上だったと言う。今ではここには鎮政府の役場が建っている。五洲山の喬氏祖廟はとてつもなく巨大で、この地方の特色を極めて備えており、長山の深い文化的背景をありありと示している。

喬国老は当時、劉備が送った多大な贈り物を受け、孫家と劉家の婚姻を積極的に促していた。こうして「呉国太の甘露寺の見合いをお膳立てすることになり、劉備を婿として招き」という長い間語り継がれる佳話を残したのである。しかし、そのすべては、彼に世が羨む大喬、小喬という娘がいたから可能なことであった。大喬と小喬は長山のふもとで生まれた。丹徒の山水に育まれた二喬は、ともに非常に美しく育った。彼女たちがどれほど美しかったのかについて、残念ながら資料には具体的な説明がない。しかし、「洛陽の牡丹は花の王」という言葉をご存じだろう。世に伝わる珍しくて高価な牡丹には「桃黄」、「魏紫」があるが、さらには「二喬」と名付けられる牡丹もあるのだ。ここから彼女たちの名声が牡丹の王国においても最上の位置を占めていることがわかる。

喬国老のこの娘たちは、大喬は孫策と結ばれ、小喬は周瑜に嫁いだ。前者は東呉の王であり、後者は軍権を掌握する大都督である。これに関しては歴史的根拠が残されている。『呉書・周瑜伝』にはこのような記載がある。「周瑜は孫策と共に皖(現在の安徽省)に攻め入り、この街を落した。当時、彼らは喬公のふたりの娘を見て、そのどちらも傾国傾城の美貌であった。孫策は大喬を娶り、周瑜は小喬を娶った」。そういうわけで、喬国老が甘露寺の見合いを演出したことは、孫権もなす術なかったのである。

結婚後、孫策は各地を転戦し、東呉を開き、支配権を握った。しかし、大喬と一緒にいることは少なかった。後に大喬は喬家門から遠くない大喬村に移った。小喬と周瑜も丹徒をよく訪れ、大喬村の東側に泊まったので、ここは後に「小喬村」と呼ばれるようになった。清朝の詩人楊鋳は喬家門の二喬村を訪れたとき、著名な『二喬村曲』を書き残した。「渓流の響きはまるで玉のように悲しくも美しい。ロバに乗って喬公の屋敷を訪ねる。隣には児手柏の古木があり、辺り一帯には春の霞が漂っている。柏の枝の緑はまるで漢の時代の色そのものだ。私は毎回歴史を紐解くたびに、彼女ら二人の美しい目に思いを馳せる。江東の姉妹の夫はそれぞれ傑出した人物である。孫策と周瑜は共に夫婦仲睦まじく、英雄と美女はそれぞれ優れている。天は彼女たちにどれほどの美貌を与えたのだろう。その名声と優しさが江東を輝やかせているのだ。私はこの地を訪れ、昔を思いつつ、再び酒を地面に撒く。村の外の桃の花が夕暮れの風に落ちる」。大小の喬村と喬家門という古い地名はこれまでずっと踏襲されつづけ、長山以北の五洲山下の至る所で見かけることができる。

数年後、孫策は丹徒山で待ち伏せに合って重傷を負い、26歳でこの世を去ったとき、大喬は20歳であった。以降、大喬に関する記載は史料からほとんど消える。大喬は長山の麓で孫策が遺した三女一子を大切に育てた。自らの身を手本として教育にあたり、三人の子女はみな揃って功績を残した。大喬の死後、彼女の遺体は横山で孫策と共に葬られた。庶民の間では、文革の時代、横山に墓碑があり、そこには「東呉小覇王之墓」と書いてあったという言い伝えが残っているが、残念ながら今では調査のしようがない。また、大喬は父母と一緒に十里長山で眠っているという説もある。一方の小喬は周瑜とともに南北を転戦し、仲睦まじい生活を11年送った。赤壁の戦いの後、周瑜は湖南省岳陽で病死し、小喬も老いて世を去るまでこの地で暮らした。