伝奇的な愛の聖地

劉備、千里を渡り甘露寺へ婚儀に赴く

鎮江北固山にどっしりと構えている甘露寺は、雄大な迫力と美しい景色を備え、その名は「甘露寺の婚儀」の故事で遠くまで知れ渡っている。伝わるところによれば甘露寺は呉国太、孫権、喬国老が宴を設けて劉備を引見した場所である。ここには、羊のようで羊ではない、頭角が欠けた怪獣の石像が「狠石」といい、頭は劉備が振るった剣で叩き切られたと伝わっている。山の北西部にある小道はかつて劉備と孫権が競馬をした「走馬澗」、長江「三大名楼」の一つ多景楼は孫権の妹孫尚香が暮らしていた建物、山頂南東側の隅にある凌雲亭は、かつて孫尚香が劉備のために祭祀を行った場所であることから、祭江亭とも呼ばれていることなどの歴史的な伝説もたくさんある。

鉄甕城を除くと、これら三国遺跡のなかで最も説得力を持って史実だと言えるのは「狠石」である。元代に編集された『至順鎮江志』巻21は、南朝顧野王による『輿地志』の記載を引用しながら、こう述べている。「石羊巷は城南にあり、呉の時代、孫権により拓かれたものである。劉備は孫権を訪ね、共に狩りに出た。その後、酒に酔った二人は、それぞれの石羊に腰かけた」。 唐の詩人羅穏は『題潤洲妙善前石羊』の中で、詩の注釈として、こう記述する。「言い伝えでは、呉の主孫権と蜀の主劉備はここで会談したそうだ」。また、蘇東坡は『甘露寺詩』の序言で「寺には狠石という石羊にまつわる相伝がある。諸葛亮孔明がこの上に座り、孫仲謀(孫権)と共に、曹操について議論した」と述べている。これらの記述から、狠石は南朝時代以前から北固山に存在しており、三国物語の有力な物証であると分かる。

 劉備の婚儀に関する物語は、『三国演義』第54回「呉国大佛寺看新郎、劉皇叔洞房続佳偶」のなかで非常に詳しく描写されている。大体の流れはこうだ。「赤壁の戦い」の後、劉備に占領された荊州を取り返すため、孫権は周瑜の計略を採用した。つまり、自らの妹を劉備に嫁がせるという名目で劉備を鎮江までおびき出して人質にしようというのである。もし劉備が荊州を明け渡さないならばその場で殺せばいい。ところが思わぬことに、この謀略は諸葛亮に見抜かれる。彼は孫権の計略の裏をかき、三つの巧妙なやり方で対処し、孫権が劉備を騙そうとしてついた嘘を、すべて現実のものにしてしまった。こうして劉備は孫権の妹孫尚香を娶っただけではなく、彼女を連れて東呉の魔手から逃れてしまったのである。孫権と周瑜は兵馬を派遣し後を追ったが、またしても諸葛亮の伏兵に破れた。孫権は劉備に夫人を送ったうえに兵を失ってしまった。一方の劉備は美しい妻を娶り、窮地を脱した。鎮江の洒落言葉ではこれを「粽を食べて竜舟を漕ぐ。つまり、とても幸運なことだ」と言い表している。

劉備の婚儀の物語の中には作り話も少なくないが、主要な人物と事件は歴史の記載に依拠している。西晋の陳寿『三国志』や、民国の盧弼『三国志集解』、北宋司馬光『資治通鑑』、そして元代の『至順鎮江志』など、これら一連の書籍によると、劉備は確かに鎮江を訪れているし、孫尚香の存在も「確かに虞将軍堅の娘である。名を仁献という」と確認できる。文献によれば彼女は「賢く機敏で、勇敢猛々しく、あらゆる兄たちが持つ気質を備えている」女性であり、江東一の娘であると評されている。『三国志』「先生伝」の記載によると、建安十四年(209年)、赤壁の大戦から間もないころ、劉琦が病死した。「彼の配下は主(劉備)を荊州の最高官員である荊州牧に推薦した。治所は公安県にある。孫権は主に対して徐々に恐れを抱くようになった。そこで、妹を主に嫁がせることで双方の関係を確固たるものにしようとした。主は京口で孫権に拝見し、ふたりは非常に礼儀正しく和気あいあいと交流した」とある。建安十六年(211年)冬、劉備は西征し四川に入ったが、孫権が彼の母の病気を偽ったので「多くの舟を派遣して妹のもとに迫り」、呉に戻った。この時から劉備と夫人は東西に分かれてしまい、会うことも難しくなった。222年、孫尚香は劉備が虢亭の戦いで戦死したと知らされる。深い絶望のあまり、彼女は車を駆って長江の畔に行き、はるか西を望んで涙を流し、河に身を投げ自ら命を絶った。

 歴史小説はだいたい史実が3割、フィクション7割である。『三国演義』の中の描写について言えば、東呉が劉備に荊州を貸し与えたこと、そして劉備が鎮江に来たことは史実であるが、荊州を貸し与えたことと婚儀は元々は直接の関係がないにもかかわらず、一緒くたにして論じられている。つまり、『三国演義』は歴史的事実をもとにしてはいるものの、やはり事実を超える再創作なのである。

  『三国演義』が人口に膾炙するようになるともに、甘露寺の名も天下で知られるようになった。甘露寺は鎮江の古い寺院であり、明代末の最盛期にはその規模は広大であった。中国仏教の寺作りの伝統にしたがい、大雄殿、天王殿、観音殿、伽藍殿、蔵経楼、鐘楼、三元殿、五聖殿、祖師殿、大佛殿、弥勒殿と海門堂、禅堂、水陸堂、雷音堂、護敕堂、客堂、尊勝堂、それに鉄塔、放生池など、境内のレイアウトには何一つ欠けるものがない。僧房は128あり、周辺には観音庵、放生池庵、太平庵、会蓮庵など21つの庵がある。